Mikity2007-10-22

昨日は、肥前の国松浦地区探訪でした。
この探訪に行かれる方は、集合早いってのは
前回経験したので、早目の行動で。
・・・でも、最後だったような気がする。
集合時間15分ぐらい前だったのに〜(笑)


まずはひたすら、田平へ1時間半程度走る。
里田原遺跡と資料館。
資料館には、出土品が所狭しと並んでいました。
甕棺を接いだもの、農耕器具、調理器具が中心で、木製が多い。
発掘時には木の繊維のみなので、
復元には樹脂を入れて固めるということだった。


その先につける、黒曜石を磨いだものを取り付ける。
昔も今も、耕して、植えて、育てて、収穫して、
調理して、食すってのは、変わらないなあ・・・。
まあ、それが、一日の中で大きな出来事かそうでないか。
一日中食べ物のことしか考えない生活って、
この飽食の世の中、想像は容易じゃない。


ヤイザーって。焼罪。
これも一つの遺跡で、イタリア人宣教師カミロ・コンスタンツォが
幕府の禁教令によって処刑焚殺されたところ。
処刑を見守る群衆に向かって彼は、
”・・・肉体を焼くことは出来ても魂を焼くことは出来ない。
殺してその後、何もすることの出来ないものを恐れることはない”と。
教会の神父さんの弟さんが、彫刻家(だったかな)で、
その方がデザインされた、炎に包まれた彼の姿が、
近代的なオブジェになって、建っていた。
その後ろには、海を隔てて平戸城が見える。


生月へ。
生月といえば捕鯨。大村の捕鯨も有名だけれども、
生月の人たちが捕った鯨の数は、ハンパない。
1725〜1860年の間に、2万1700頭。
当時のその捕鯨の仕方の説明を聞いたら、
それがどんなに凄い数字かわかる。
島と島との間に、網を張って船を何艘も出し、そこに鯨を追い込む。
そこに辿りつくまでは、色々研究を重ねたらしい。
そして、一番銛を投げ命中させたら、
鯨の上に登り、鼻(潮を吹くとこ)に穴を開けてロープを結ぶという
花形の仕事をする人がいた。危険なので給料も高かった。


そして銛をどんどん投げ込んで(心臓を狙いながら)、動きを止める。
一頭を捕まえるのに500人必要で、網を編む係、鍛冶屋さん、
鯨を捌く係(3時間かかるらしい、今は30分)
保存する係・・・等色んな仕事があった。
もちろん島民では足りず、出稼ぎの人がたくさん来て。
その当時の平戸藩への献金は1万5千両。
益富家という富家は、当時の長者番付の7番目に載ってた。


教会へ行った。田平天主堂
レンガつくりの教会。レンガとレンガの間の目地は
貝殻を焼いて粉にしたもの。貝殻焼きの場所も外にあった。
ステンドグラスも、当時のものが3枚あった。
他は、ドイツやイタリアからのものに替えられたとのこと。
大正6年に竣工、石門にも刻まれてた。


”大村以外の史跡遺跡を見て聞いて廻ると、
大村に記録が無いところのことがわかる、
毎回なんか違うことがわかるよね〜”と会長さんが言っていた。
そこまで、基礎データが私には入ってないけど、
色々考える時間です。