Mikity2009-07-02

昨日は、朝から大雨。
市内のお寺にご詠歌の稽古に
ぢいちゃんと行く予定だったけど、中止〜って。
で、いつも通り、廊下と位牌場の雑巾がけ。
いや〜二人でやると早いねえ・・・。
後は、提出用の書類などを作り。


大学へ。
雨は降り続け。
”良心の拘束”について。
”良心”を”神の声”と把握することとは。
少なくとも良心の存在を認める人は、
その背後に何か超越的な存在を認めるからである。


トマスは”神の声”と直接的に表現はしていない。
しかし、トマスはそのように理解していることは、
彼の良心の拘束力の基礎についての論述に特に顕著である。


人間は自分自身のために法を作りえない。
仮に作ったとしても、人は自分自身よりも
上位の存在ではありえないから、そのほうは拘束力をもたない。
この2つ目に対して、反対論者が当然いる。”上位たる存在?”
”信仰のあるものに、哲学はできない・・・?”
トマスは信仰があった。


トマスは彼らの理論の正当性を認めつつも
良心によって知り、応用される法の主、
永遠法の創始者は、人間より上位的存在どころか
最高、絶対的存在であると。
当然その拘束力も絶対的であり、拘束力を持つ。


いや〜、しかしお互いに聞きたいことがありますね。
しっかり勉強してきます。