Mikity2011-08-04

大乗仏教が生まれた背景は。
出家中心から在家への改革。
しかし、宗教として成り立たないのではという批判。
仏(目覚めた人)となることができる…”善きこと”
仏となる性質をもっている。
つまり、誰もが仏と等しいという前提。
衆生に限らず一切が等しい…空
縁起によって生じ、滅す。


その”…になる”の消去へ進展。
になる(目的性)→である(本来性)天台本覚思想。
衆生のみならず山川草木までも、その本質において無差別。
一切を一元的に語る。
言葉で世界を呑み込んでしまいたいという身勝手な貪欲さ…?
一線を越えた時の緊張感を保つことができるのであれば、
まさに究極的だ。
覚るための修行から、修行のための修行へ。
坐禅のための坐禅、念仏が念仏する


思い通りにならないから苦しい。
では、どうすればいいか。
思いを断ち切るか、思い通りにするか。
後者は、その思い通りにすることを繰り返している今の私たちだ。
思いを断つことができれば、それは目覚めた人だ。
苦を滅するとはどういうことか。
同時に生の意味も失う…
無執着の世界は平板で、
”善きこと””悪しきこと”の区別を立てることもない。


人を援助するとは、善きこととは。
単に苦を滅するだけでは、世界は平板になる。
ただ他者を慈しむだけではニヒリズムに呑み込まれる…
思い通りには助けられないからだ。
”善きこと”は、いかなる苦をも滅することができるという確信と
他者の苦を見据える慈悲という二つの独立した原理から成り立つ。
しかし、いかなる苦をも滅することができるという確信など
凡夫の私にはない。
実際の援助の現場は、思い通りにならないことの連続であり、
自問の毎日で自責の念に駆られる。
思い通りにならない現実に…
見限る?立ち去る?…祈る?敗北を迎える。
私たちは”善きこと”を目指していたはずではないか?
”善きこと”は決して手近にない。
小さなできること、できたことの積み重ねが援助を支える。