Mikity2007-12-04

昨日は、朝から老僧(ぢいちゃん)の迎えで
小浜へひた走り。
”お待ちかねですよ〜”と旅館の人に言われ、
そして、講員さんにゾロゾロ見送られて出てくる
ぢいちゃん、ご機嫌だねえ〜(笑)
有り難いねえ〜


さて、大村へと運転していたら、
”○○寺行ってみよう”とぢいちゃんが言うので行くことに。
実は、檀信徒研修会があっていたのですね。
行く予定にしていたのですが、
ぢいちゃんを迎えに行くことになったので、
行かれないな、こりゃ、と思っていたので。
まあ、元気というかなんというか。
温泉のパワーかしら。
呂律が多少回ってない(アレのせいです、自業自得です)のも
気になるけど。


当山のお檀家さんが、
”夕べは飲ましたやろ〜やかましく言う人のおらんけん”
お見通しです(笑)さすがです。


”発願文をいただく”という題目で。
講師の先生は大分は国東からお見えでしたよ〜。
”お浄土はあるのか、ないのか?”ということを耳にするが、
全く、暢気な考え方だ、と。
お浄土がなければ、”生きることも死ぬこともできないのです!”と
何度もおしゃっられていました。


すると”死”を考える。
無常観、無力感、罪悪感のもとに宗教の門は開かれる。
”生”とは感動をもって生きること。
それは、”いずれ死ぬんだ”ということが前提。
毎日が臨終なんだ、臨終の積み重ねが”平生”であると。


”彼の国に到り己って 六神通を得て 十方界に入って
苦の衆生を救摂せん”
極楽浄土へ行ったなら、六神通(人を救うことのできる力)を得て
この苦しい世へ還ってきたいと願う・・・
旅立ちへの発願・・・


六神通のうちの一つの力”天耳通”は
人の愚痴を聞いていられる力。それは人を救うんですねえ。
”私の母も、息子の私に愚痴を聞いてもらいたかったと思うんです”
”もうその話は何回も聞いたよ!”とその場から立ち去っては
いなかっただろうか、と思うと。
その時は、なかなかわからないものです・・・。


しかし、見守ってくださっているのは確かですね。