Mikity2009-11-12

昨日は座敷の掃除、
廊下と位牌場の雑巾がけなど…
あ、香炉掃除もね。


大学へ。
哲学―理性的、神学―信仰的。
総合的に考えることはできないのか?
16世紀には、信仰の立場から異論。
神についての哲学はやめる、なぜなら信仰の対象であるから。
ルターはその筆頭であり、
”哲学は狂気であり、それを用いる神学は発酵の悪い酒樽”
アリストテレスを”信仰の教えの破壊者、つまらぬ詭弁家、へりくつ屋”
などと言っている。


J・マリタン『三人の改革者』では、ルターを天才的雄弁家であっても
”反主知主義”として批判している。
ルターは、理性的学としての哲学(地上の王国)
信仰の学としての神学(天上の王国)とを明確に区別し
両者の混同を厳しく戒める。


さて、トマスはどうか?
信仰と理性、神学と哲学の関係を区別されたものと規定するが、
しかしこの区別は総合のためであるとも言っている…トマスの特徴的思想


”人間は神を自己の或る目的として、これに向かって秩序づけられて
いるものであるが、この目的たるや、理性の把握を超えている”
として”人間の救済のためには”哲学的諸学問のほかに
啓示に基づくある種の学問、つまり神学が必要であるとする。
一学問は、それ一つで成り立っている学問は無いとうことだ。
哲学やるには語学も必要…物理をやるには数学…


信仰や神学の世界と哲学の世界とは、完全に排他的ではない。
”神についての可能な限りの人間の探求”に関して、
”人間の救済”にとって必要である限り
神的啓示によって教示を与えられることが必要である限り、
自然的、哲学的知識、啓示的、超自然的知識は
交錯する部分がある。


”排他的”…昨日は先生ともその話題に当然なった。
他宗教を批判する時は、その宗教をよく勉強してから批判しないと
まあ…大怪我しますよね、などだ。