Mikity2009-11-19

昨日は座敷掃除、廊下雑巾がけ
位牌場雑巾がけと、
換気扇から外気が入ってくるところの
少し高いところの掃除など。


大学へ。
信仰と理性、神学と哲学の総合問題について。
ラッセル(英)『西洋哲学史
ラッセルはノーベル平和賞を受賞。無神論者。
この文献については様様な批評があるらしく、
中世哲学に関してはあまり評価できないと(松本正夫)
しかし、日本では多く読まれているらしい。読み物としてだ。
…つまりラッセルは信仰や神学に統合されたような哲学は、
哲学本来の姿と自立性を消失している、という立場からの批判。


ラッセルはトマスをこう評している。
…(トマス)アクィナスは、哲学的思索を始める前に真理を知っている。
その真理は、カトリック信仰の中に宣言されているのだ…
この総合問題は、フランス哲学界を中心にさかんに論争された。


ラッセルに対する批判として、松本以外に
ジルソンは、古代の哲学者たちがいとなんだ思索の跡を辿ると
”信仰によって受け入れられた真理を、認識された真理へと変容”
しようとする一貫した努力が見られる。
その努力の方法は…信仰の助けを認めている点では共通している。
…信仰が前提の哲学はあり得るとしている。


ではこの場合の信仰の役割とは何か。
”導く星(stella rectrix)”と教皇ピオ十二世。
これはどの宗教にも言えることでなないか、明快な比喩だと思った。


信仰を一つの固定的偏見と見ること事態すでに大きな問題。
偏見も前提もない、モノゴトの解決ってあるだろうか、ということだ。
デカルトは、いかなる偏見も前提もない哲学体系を
構築しようとしたが失敗した。
そこに”自分”がいたからだ。
人間は一人では生きていかれないように、
影響を受けていない人間はいない。


いかなる影響も受けないで思索し、哲学することができる!
と断言できる人がいるのであれば、
それこそ有害で、危険な偏見である。