Mikity2009-10-15

昨日は位牌場の雑巾がけをし。
郵便局に寄ったりして
大学へ。


図書館で調べ物をしていたら、
”裏山が大雨で土砂に巻き込まれるので避難しなさい”
という避難訓練が突如始まり(知らんかったー)
体育館へ行き(避難し)、学部生1000人あまりの中に整列することに。
そしてAED(automated external defibrillator自動体外式除細動器)の
使い方のビデオをおとなしく見て勉強。
確かに街中で最近はよく見るけど、いざ使う!となったら躊躇するだろうね。
心房細動や心臓しんとう(心肺停止の原因)が起きたら、
除細動を与えて正常な動きに戻す。


誤れる良心の拘束の限界。
トマスは、たとえ”誤れる良心”でもわれわれを拘束する、と結論する。
実に大胆だ。ここだけを読むと誤解されそうである。
対してボナヴェントラは、
良心が神の掟に合致していない場合には、良心の命ずることを行っても、
あるいは良心が禁止することを行わなくても
すでに神の客観的意志に反するのだから大罪を犯すことになる
というのが基本的な考え方である。


しかし、トマスはこのような考えをきっぱり否定。
”誤れる良心”でもわれわれを拘束する、と結論するが、
正しい良心と誤れる良心との拘束力は、それぞれのその条件を異にしている、
という主張も忘れない。
トマスは、誤れる良心の拘束力の基礎を、
良心が正しいか誤っているか、あるいはどのような行いをするのではなく、
それがまさに良心によって
”善である””為すべきである””神の掟に合致している”
あるいは逆に”悪である””為すべきではない””神の掟に背いている”
などど判断され、またそのように提示されている、という事実においている。


しかし”誤れる良心”に従う義務・・・?
やはりそれには道徳的責任との問題があるだろう。
たとえ良心に従っているからといって、
道徳的責任から免れるということではない。
トマスはそこをはっきり区別する。


トマスは”誤れる良心”を”無知”との関連で考察。
克服できない無知と克服できる無知。
知る義務のある人が、知るべき事柄を”怠惰と悪意”によって
これを知らない場合などだ。


人間は決断の瞬間において、自分の良心が正しいと判断することに
従わなければならないことに変わりはない。
しかし、それが客観的に正しいとは限らないし、
良心に従って行動したとはいっても、一切の非難や責任、
時として厳しい処罰から免れることはできない。


解りやすいというか、人間の特質を見抜いたこの良心論は、
第二バチカン公会議でも採用されている。


いつも大学の帰りに走っている海岸に、久しぶりに車を止めて
大村湾を眺めてみたの図(写真)
日の入りが早くなったねえ〜