Mikity2010-01-28

昨日は(法然上人)御忌法要。
朝から大根の皮を剥いたり、
先日作ったゼリーを切り分けたりして。
そして、説教師さんをお迎えに行きました。


おときは、大根なます、あつもの(煮物)、雑煮、漬け物など。
そうそうりんごも切らないとね。
こんな感じで、お説教さんのお話はほとんど聞くことは出来ませんで。
やはり自分で勉強するしかないよね、何と言われようと。
時間の使い方だ。
…のままでいられるにはどうしたらいいか…か。


大学へ。
授業はすでに始まっていました。
先生はもう退官されるということをお聞きしていたので
一つ一つが大事だと思いつつ、
先月からホントに休んでばかりですみません…。
”45年間教えてきました…”と言われると
なんか自分がみっともないあ、と
昨日はつくづく思った。


何が幸福にしてくれるのか。
富か、名誉か、栄光か、権力か。
このような外的善は自体的に欲求されるものでなはない。
他の目的達成のための手段的善である。
十分ではない。このような欲求は止まるところを知らない。
そして永続的ではない。


対して徳や知識、英知などの霊的善。
常に外的に補給されなければならない。
そして決して完全な域にに達することはない。
不完全である。
”人間の幸福は神のうちにのみある”
――仏のみ光のうちにある…。


神が何であるか、仏が何であるか…形相的至福。
トマスは、意志の行為である神への愛を形相的至福とは考えていない。
知ろうとすると愛せざるを得ない。
人間が至福に形相的に到達するのは、意志ではなく知性による直視。
トマスの主知主義とボナヴェントゥラの主意主義
反しないと先生は新説を唱えている。


来週で最後、ということでした。
さみしくなりますね。